こんにちは。私は、東京都心で日刊新聞「世界日報」の販売店長をしています。 お勧めの「世界日報」の記事や、日々の活動や生活の中で感じた事など、何か明るい情報を発信してゆきたいと思います。
ヘレンケラーにも賞賛された中村久子女史
早朝の寒さが、ひとしきり身に染みる今日この頃です。
東京都心では空気も乾燥していますが、皆様風邪など引かれては
いないでしょうか?

さて、今日の記事紹介です。
「三重苦の聖女」ヘレン・ケラーをして
「私より不幸な、そして偉大な人」と称賛された日本人が
居たとは知りませんでした。
それにしても、昔の日本人には凄い人が居たものです。

「手足なき 身にしあれども 生かさるる 今のいのちは 尊かりけり」
「いかなる人生にも決して絶望はない」
「逆境こそ恩寵なり」


日本には自殺者が年間3万人も居るそうですが、
中村久子女史の言葉こそ、現代人に必要な言葉かもしれません。


2008/1/14 11面 家庭欄

四肢切断の過酷な運命を克服

中村久子女史とその家族

     /心を鬼にした母の愛
 

nakamurahisako

 幼少時に病気で両手両足を失うという過酷な運命にもめげず明治・大正・昭和を力強く生き、「三重苦の聖女」ヘレン・ケラーからも「私より不幸な、そして偉大な人」と称賛された中村久子女史(一八九七−一九六八)。彼女の生涯は、まさに想像を絶する苦難の連続だったが、そこには強く深い家族の絆があった。(京都支局・池田年男)

 明治三十年、岐阜県高山市の畳職人・釜鳴栄太郎の家に生まれた女史は、三歳の時に凍傷がもとで突発性脱疽を患い、手術で両手両足を切断。一時は失明の危機にも見舞われた。だが、たゆまぬ努力で裁縫や書道などの技術を身に付け、自立を目指す。

 その陰には、「少しでも自分のことは自分でできるようにさせねば」という両親の親心があった。特に母・あやの躾は厳しく、約一年間の練習を経て女史が自力で食事ができるようになると、掃除や炊事をするように言いつけ、容赦しなかったという。「これでも実の親か」と思ったと、後に女史は述懐している。

 娘の将来のため心を鬼にした母の訓育と、女史自身の負けず嫌いの性格。そのうち、口の中で麻糸を結び合わせることもできるようになった。やがて女史は生活のため見せ物芸人になり、「だるま娘」の芸名で各地を巡業した。

 一方で、最重度の障害を克服してきた半生は世間の注目を集める。新聞や雑誌、ラジオなどで紹介され、本も出した。「手足なき 身にしあれども 生かさるる 今のいのちは 尊かりけり」「いかなる人生にも決して絶望はない」「逆境こそ恩寵なり」といった女史の言葉に励まされ、勇気をもらった人は数えきれない。

 縁あって結婚したが、間もなく最初の夫は病死、再婚した夫も早世。三人目の夫とは離婚するなど、当初は家庭的にも恵まれなかった。だが、その間、三人の娘を授かり、三十七歳の時に結婚した中村敏雄さんは生涯の伴侶となった。

 敏雄さんは次女の富子さんとともに女史の足となり、全国を講演するのに同伴。常に笑みを絶やさない温厚な人柄で、昭和四十三年、女史が七十一歳で生涯を終えるまで献身的に支えた。

 女史はとりわけ亡き母に深い恩を感じていた。六十九歳の時に発願して慈母観世音菩薩像を高山市の国分寺に建立。その発願文に、次のように記した。「洗うが如き極貧の中に四肢切断の私を抱え、あらゆる苦境の中にもかかわらず、人間として女として、生きて行くことのできるまでに、正しい愛情ときびしいお躾を以って愛育して下さったお蔭で、見世物小屋の中にも二十数年を無学で無一物の体で、その後も『生き抜く力』を心にしっかり植え付けて下さったのは、母のご恩に他ならぬのであります」

---中略---

 現在は次女の中村富子さんが、講演活動や執筆活動を通して、母を語り続けている。ちなみに、中村久子女史の人生を数々の写真や遺品などを通して紹介する特別展(龍谷大人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター主催)が、京都市伏見区の同大深草キャンパスで今月末まで開催中。女史が口を使って裁縫している場面の写真や、自作の人形、裁縫道具、書の作品など計八十六点が並ぶ。
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